夢は終わる    But, the World never End
 ただいま、と誰もいない部屋に飛ばした声は、予期せぬ来訪者にぶつかって止まった。
 予期せぬ、とは言っても六割くらいはいないだろうと思っていただけで、残り四割のところでは何となくいるような気はしていたから別段、驚きはしなかったけれど。
 月の光がほのかに照らし出すベッドの上で、黒い塊がもそもそと動き、そしてまた静かになる。次に認識したものは、チェストの端で小さく輝く蝋燭の炎だった。蝋燭というよりはキャンドルと呼んでやった方が見た目には相応しいだろうか。女の子が好みそうな、丸みを帯びた可愛らしい形と淡い色、そして空気に柔らかく溶けた甘い香りが、生活感滲み出すぎているボロアパートにはおよそ不釣り合いで、キャンドルに対してほんの少しだけ申し訳ない気持ちになった。どうしてこんなところに連れてこられちゃったんだってばよ、お前。可哀想に。
 ナルトは彼女をこんな目に遭わせたであろう元凶の男に視線を戻す。声を掛けることを一瞬の判断で止めてしまったのは、他人のベッドを我が物顔で占拠している彼に気を遣ったというよりは、夢から覚めてしまいたくなかったからだ。蝋燭の灯りのせいだろうか、肌に触れる時の流れが妙にゆっくりしていて、夢と現の狭間に浮かんでいるような、浅い眠りの中で夢を見ているような、そんな雰囲気にひどく心惹かれた。
 サスケがナルトの留守中に勝手に部屋へ上がり込んでいるのは今に始まった話ではない(サスケにはモラルというものが欠如しているらしい。多分どこかに落としたっきり探しに行っていないのだろう)。
 いくら厳重に施錠してもあっさり入り込まれてしまい閉口した末に、もっと早くこうしておけば良かったんだろうか、それとも今さらだろうかと思いながらも合い鍵をつくって渡したのがつい最近のこと。
 拒絶するという選択肢をまるで持っていなかった自分に一番閉口した。
 足音を消してサスケに近づき、ベッドサイドに腰を下ろす。するとサスケが寝返りを打ってこちらを向いた。あまりのタイミングの良さに狸寝入りを疑ったが、気配におかしな乱れがないところを見ると、その可能性は低そうだ。
 しかし念には念を入れてしばらくサスケとにらみ合いを続け、やはり目覚めている様子はないことを再確認し、それから、ナルトは慎重に手を伸ばした。
 触れた頬から指先へと移る熱に後ろめたさのようなものを感じたのは一瞬だけで、起こしてしまわないよう控え目に二、三度つついて整った顔を歪ませ、髪の毛を軽くつまんで指を滑らせる頃にはもうすっかり面白くなっていた。
 口元が自然とほころぶ。
 きっとこんな気持ちを幸せと言うんだろう。

 特別を喜ぶ幸せではなく、
 当たり前を尊ぶ幸せ。

 相変わらずの勝手な振る舞いに少なからず呆れたのは事実だけれど。
 任務で帰りが遅くなると、それどころか今日戻って来られるかどうかもわからないと知っていたはずなのに、それでも待っていてくれた。
 生まれた日を一緒に祝って欲しいと、そう思ってずっと待っていてくれた。
 いくら名前を叫んでも立ち止まるどころか振り向いてさえもらえず、やっと捕まえたかと思えば拒絶の刃を向けられ、手を伸ばしても空を虚しく掴むだけだったあの頃のことを思うと、今目の前にある現実は自分が現実だと思い込んでいるだけで、実は誰かの幻術で見せられている虚構なのではないかと疑いたくなる。
 誰が何の益があってそんな幻術をかけるのかと問われても答えようがないが。
 けれど、だって、こんなのあまりにも、都合が良すぎるじゃないか。
 ずっと欲しかった幸せを手にしている自分。
 だからこそ、自分に都合の良い夢なのではないかと。
 そんな不安を。

 幸せを手にするための努力は怠らなかったつもりだ。
 今生きているこの世界が幻術でつくられた偽物だなんて、本気で思っているわけじゃない。
 ただ……
 ただ漠然と、嫌なだけだ。

 眠れば夢を見てそして目を覚ませば夢が終わるように。
 いつか当たり前が当たり前でなくなる時が来るのが。

 始まりがあればいつか終わりが来るとわかっていて、そんな別れをいくつも経験して、受け入れなければならないことなのだと覚悟し折り合いをつけることを覚えたところでそれでも、嫌なものは嫌なのだ。

 嫌なんだ。

「……サスケ」
「お帰り、ナルト」

 戻ってくるはずのない呼びかけを優しい言葉で返されて、ナルトは口を閉じるのを忘れてしまった。声も出ない。いや、何かは言ったような気がする。けれど、多分言葉というよりはただの音だったろう。驚いて反射的に跳ねた肩をサスケに掴まれている、と気づいた時にはもう、サスケの顔が視界に入りきらないほど近くに迫っていた。むしろもう距離はゼロ、いや、マイナスだ。
 唇が熱い。息苦しい。衣擦れと濡れた音と、堪えきれずに漏れ出た声で余計に熱くなる。息が吸えない。苦しい。気持ち悪くはない。いっそ気持ちが良い。でも、苦しい。苦しい。苦しい。
 ナルトが懸命にサスケのどこかを(どこだろう。多分肩か脇腹だ)強く叩くと、サスケがふっと笑ったのを口元で感じた。
 何とか要求が通りようやく解放された口で、足りなくなっていた酸素を大量に吸い込むと、靄のかかっていた視界が一気にクリアになる。悲鳴を上げ始めていた脳も何とか危機を脱した。
 サスケの指が舐め回すようにナルトの髪を弄ぶ。振り払ってしまいたかったが、残念ながら今はとてもじゃないがそんな気力が起きない。つけていたはずの額当てはいつの間にか外れていた。
「キスする時は鼻で息しろっていつも言ってるだろ。いい加減学習しろ、ウスラトンカチ」
「バッ……なに、お、おま、ね、ねて」
 バカヤロウ。いきなり何するんだ。お前寝てたんじゃなかったのか。
 と頭では盛大な罵倒が理路整然と並んでいるのに、何故かそれを一度にすべて言おうとしてしまって結果、すべて不発という最悪の事態に陥る。
 だがサスケにはナルトの口の開閉だけで何故かすべて伝わっていたらしい。身体を起こしてベッドの端に腰掛け、ナルトの質問に対する答えを、起きてた、の四音で済ませると、呆れ顔で苦笑した。
「上忍なら寝てるかそうでないかくらい、気配でわかるだろう」
 何をいけしゃあしゃあと。最初から俺を騙すためにカモフラしてたくせに。
 そう悪態をつこうとして結局やめてしまったのは、言外にサスケの実力の方が上だと認めることになってしまうと思ったからだ。たとえそれが事実だとしてもやっぱり、負けを素直に認めることにはどうしても抵抗があるし、ぶっちゃけた話、腹が立つ。
 飲み込んだ苛々が胸につかえて反論できないナルトに対して、サスケはあからさまに何かを要求する目でナルトを見つめていた。
「……何だよ」
「待ってるんだ」
 今度は自分に腹が立つ。
 何を?と問い返すまでもなく相手の求めているものがわかってしまう自分に。
 馴れ馴れしく頬に添えられた手を振り払おうとしない自分に。
「……誕生日オメデト」
「心がこもってない」
「たんじょうびおめでとうございます」
「目を逸らすな」
「いちいち注文が多いってばよ」
「ナルト」
 目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。
 普段は偉そうで不貞不貞しい態度ばかり取るサスケにこんなにもひたむきな目で見つめられてしまったら、観念するより他はなくなってしまう。断っておくが、最初からどこにも逃げ場はなかったし、逃げる気もなかったから別に負けたわけではない。
「あー……えーっと……た、誕生日おめでとう、サスケ」
「ありがとう、ナルト」
 そう素直な礼を口にしてサスケが微笑んだので、ナルトはつい顔を背けてしまった。決して嫌悪感を覚えたのではなくて、むしろその逆なのだけれど。でも、なかなか慣れることができない。
 あまりにもあからさまな態度に気を悪くしただろうか、とナルトが横目でちらりと様子を窺うと、サスケは嬉しそうに……というよりは、にやにやと締まりのない顔で笑っていた。
 どうやら今最高にご機嫌らしい。
 ああこいつってこんなに単純バカだったっけ?
 ナルトが遠慮なしに盛大な溜息をつくと、サスケはさぞ不満そうに片目を細めた。
「何かご不満でも?」
 不満があるのはお前だろう。
 そんな文句を口の中で転がしながら、何故か少し笑ってしまった。
「サスケってさ、今、幸せ?」
「……ああ」
 そうだろうな。顔に出すぎだ。
「俺は、こんなの嫌だ」
「どういう意味だ?」
「え?」
 先程までの緩みすぎた口調から一転して硬さを帯びたサスケの声に、知らず意識が跳ねた。
 今自分は何を言ったのだろう。
 時を数秒だけ、過去へと巻き戻す。
 どうしてそんなことを口にしたのか、自分でもよくわからなかった。
「お前は幸せじゃないのか?」
 口調はあくまでも強気で、怒ってさえいるようにも見えるのに、それなのに、サスケの表情にはどこか陰りが浮かんでいた。
 まるでナルトではなく、自分自身を責めているような。
「ちが、俺は……」
 違う、お前は何も悪くないんだ。ただ俺は……
 考える時間も惜しくて、半ば感覚でしゃべっていた。
「もっと幸せになりたいんだ」
「は?」
 恐らく、いくつか予想していた回答のどれにも当てはまらなかったのだろう。盛大に眉根を寄せたサスケは、明らかに困惑していた。
 けれどそれはナルトも同じだ。
 一体何が言いたいんだ、俺は。
「いや、今もじゅーぶん幸せなんだってばよ? でも、何て言うか……その……」
 四捨五入すれば二十歳になる人間が、何を小さな子どもみたいな我が儘を言っているのだろう。
 そんな自覚はナルトにもあった。だが、考えずとも言えた言葉ということは、少なくとも一度は思い描いたことで、嘘ではないということだ。
 上手く言葉にできないこの気持ちはちゃんとサスケに届いただろうか。
 しばらく、何かを探るようにナルトを見つめていたサスケの双眸が、ふっと緩む。ナルト、と名を呼んだその声はやけに穏やかだった。
「俺はもうどこへも行かない」
 俺の居場所はここにしかないんだ。
 そう続けてサスケが自嘲気味に笑う。
「別、にどこに行ってくれてもいいってばよ」
 あの時のように、ただ身を滅ぼすだけの過去に捕らわれてしまったというのなら全力で止めるが、今のサスケなら、二度と同じ過ちを繰り返すことはないとナルトは確信している。叶えるべき未来のためにここを、里を離れるというのなら、ナルトは気持ち良く送り出してやりたいし、応援してもやりたい。サスケがあの時の代償を一生負い続けなければならないことはわかっていても、だからと言ってサスケの望む未来に反対する気はさらさらないし、そもそもからしてそんな権利はナルトにはない。
 この先もうどこへも行かない。
 そんな保証はどこにもないのだ。
 サスケに顎を掴まれ顔を上向けられて初めて、ナルトは自分がうつむいていたことを知った。
「俺は、ここで毎年、お前に誕生日を祝ってもらうと決めたんだ」
「んなこと……勝手に決めんなよ」
「その代わり、お前がジジイになっても俺がお前の誕生日を祝い続けてやる。それなら文句ねえだろ」
「だからそんなの勝手に」
「さっきより幸せになっただろう?」
 疑問形で訊いているくせに妙に断定的なサスケの物言いに、ナルトは迂闊にも言葉を失う。
 いや、失ったのではない。
「これからもっと幸せにしてやる、ナルト」
 否定する必要も理由も最初から、どこにもなかっただけだ。
 けれど、いや、だからこそ、一斉に緩もうとする顔の筋肉に簡単に屈してしまいたくはなかった。サスケの言い分をただ黙って受け入れるだけでいることも。
「……そ、それはこっちのセリフだっての!」ナルトは威勢よく立ち上がり、サスケの鼻先に思い切り人差し指を突きつけてやった。「いいか、サスケェ! お前のこと、もう勘弁してくれってくらいに幸せにしてやるから、覚悟しとけよ!」
 決して嘘ではないしむしろ本心なのだから。口にした言葉の照れくささにはこの際目をつむろう。男は覚悟が肝心なのだと腹をくくる。
 そんなナルトを窺うように上目で睨んでいたサスケだったが、やがて低い声でぼそっと呟いた。
「本当だな?」
「男に二言はねえ!!」
「そうか。じゃあ早速実行してもらおうか」
 そう偉そうに言って、サスケは悠然と両腕を広げる。
 三秒ほど、不自然な時間が流れた。
「何」
「お前が俺の胸の中に飛び込んできてくれれば俺はものすごく幸せになれる」
 よくそんな恥ずかしいことを真顔で言えるものだ。
 呆れるを通り越して感心してしまう。間違えてもらっては困るがもちろん嫌味だ。
「……俺、風呂入りてえんだけど」
「風呂か。その趣向も悪くないな」
「お前もう帰れよ」
「心配するな。明日は非番だ」
 今になって今日一日の疲れがナルトの両肩にどっしりとのしかかる。
 なんという減らず口。
 気疲れからナルトが(何気なさを装いつつ)サスケから視線を逸らせると、その拍子に目の端を小さな灯りがかすめた。蝋燭の炎はいつの間にか、ずいぶんと弱々しくなっていた。
「あれ、どうしたんだよ」
「もらった」
「誰に?」
「妬いてるのか?」
「……もういい」
 疲れた。本当にもう疲れた。
 この男をさっさと追い出して今日はもう寝てしまおう。そう固く決意してナルトが着替えを始めると、ベッドのスプリングが小さく鳴った。サスケの皮肉めいた溜息も聞こえた。
「昼間、買ってきたんだ」
「……は? もらったんじゃないのかよ」
「せっかく俺の生まれた日なんだからな。たまにはこういう雰囲気の中で、ってのも良いだろう」
 何が『せっかく』で、『こういう雰囲気』の中で何をしようと言うのだ。
 あまり深く考えたくない。
 だいたい自分の誕生日に自分で蝋燭を買って自分一人で火をつけるってどんだけ寂しい男だよ。
 そりゃ確かに少し……ほんの少しだけ、惑わされて何からしくないことを考えてしまったような気がしないでもないけれど。
 急に顔が熱くなる。恥ずかしいからだ。
 何が、どうして、恥ずかしかったのだろう。
「……サスケってさ、バカだよな」
「バカはお前だ」
 サスケの手が真っ直ぐ伸びてくるのがナルトの目に映る。
 ああ腹が立つ。
 きっとこの手を取ったらこのバカの思い通りに事が運んで俺はたった今誓った決意はおろか、明日の予定まで滅茶苦茶にされるんだ、それをわかっていながら。
 結局、サスケの我が儘を拒絶するという選択肢など最初からどこにもない自分に、腹が立つ。
 悔しいがサスケの言う通りだ。
 一番のバカは俺だ。
 ああ腹が立つ。
 腹が立つのに。
 どうしてこんなに。




 不意に視界がワントーン暗くなる。蝋燭が消えたのだろう。暗さに慣れた目に映ったのは、いつもと変わらぬ汚い部屋だった。
 ベッドの上ではサスケが下心ありありの顔をして右手を差し伸べている。
 そう、これが現実だ。

 夢は終わる。それが何だって言うんだ。
 これが自分で選び取ってきた現実。ここが自分の生きる世界。
 何も終わりはしない。

 終わらない。
 終わりそうにない。
 終わらせてもらえそうにない。

 終わらせない。


 覚悟しとけよ、うちはサスケ。
 誰がお前の手なんてバカ正直に取ってやるもんか。

 ナルトはサスケの最初の要望通り、強烈なボディプレスをお見舞いしてやった。





 そうやって当たり前は続いていくのだ。これからも。